『西神田の大和湯』のお話♪♪♪
平井家は長岡郊外の椿沢から始まり神田そして戦後西神田の地に落ち着いた。父久右衛門、母サヨは戦後8人、21歳違いの兄弟姉妹をこの地で育てた。丁稚奉公で習得した屋根葺き職人から子育てのためにお風呂屋さんとなってこの地に根付いた。
2018年8月29日水曜日
13大和湯東京支部~初台
神宮の花火が初台の家から良く見える。京都の姪は女医さんで数年前から在京だが、今年は花火が見たいと珍しく連絡があった。どうせならと集まれる親戚が一堂に会した。翌日は川崎に三男光夫兄貴と奥さんのお墓参りに行ってきた。先祖様が近くなった。
2015年5月27日水曜日
2015年3月26日木曜日
2015年2月5日木曜日
9親父・平井久右衛門の職人時代の仕事
親父は東京品川で屋根葺き職人の修業をした後、椿沢、長岡で職人集団『平久』をやっていた。28才の頃三条の本成寺から依頼を受け多宝塔の屋根を請け負った。更に子供7人を食べさせるために当時流行(現金収入の為)の『銭湯』を起業したが、戦時下だった為空襲で消失し命からがら、親父は仏壇を背負って故郷見附に疎開したと言う。若い兄貴(三男光男兄)は空襲の中寝ていて起きなかったと!親父の話し。その後私が生まれ(昭和22年)再建した大和湯は大家族の歴史を刻んでいった。
私が7歳の時親父は昔の腕を買われ本成寺の本殿屋根を葺き替えることになったのがこの写真。若い時にやった多宝塔の前に親父が居て、写真は長兄久司兄。私は改修のさなか大屋根に一人で放置され親父の作業中、一人で棟の真ん中をまたいでいたが小水が我慢できず、足場を下まで降りる勇気もなく、さらに親父の作業を妨げようものならもっと怖く、結局おもらししてしまった。親父の反対側の屋根面も熱く焼けていて『じゅじゅっ♪♪♪』と音を立てて流れながら蒸発していった。この映像は私の脳裏に焼くついて離れない。
帰り際、参門の足元に職人『平井久衛門』の名が銅板に刻み呑まれてるのを親父が誇らしそうに見せてくれたが、私の頭はうわの空だった。
2013年6月14日金曜日
8長兄・平井久司20130419逝く
享年88歳(満86歳)21歳違いの兄貴が逝った。納棺の儀式をしたのは初めてであった。細い身体に旅支度の装束を家族が付けるもので、身体は冷たくなってるが耳は聞こえているとの説明があり、『身支度の手伝いをしたら耳元で語りかけてください』との教えを頂き、悲しみと別れが更に現実的になった。
兄は長岡中学の出で、卒業生の中に洋画家高村真夫(しんぷ)がいて、親父がマサオと付けるに当たり兄が『真夫』を提案してくれたと聞いている。建築設計と水彩画を描いている私にとって名前は啓示となった。兄はどんな先輩方より年上の長岡高校の先輩であり、兄弟の多い私にとって目標であり自慢であった。沢山の孫や甥っ子姪っ子に囲まれ兄貴は幸せそうだった。家族だけの質素で濃密な葬儀であった。これからも兄貴を思い出しながら書き残してゆきたい、私の可愛い甥っ子姪っ子たちのため。に。
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